『ロジャー』

        一色靖

 戦友と呼べるほどの仲間はぼくにはいない。いや、それはちょっと近視眼的だろう。女房は明らかに戦友だ。だがせいぜいそのくらいだろうか。しかし、女房はには他にも戦友がいたらしい。
 ぼくの家のキッチンには食洗機がある。
 食洗機というのは意外に電気を食う。こいつと同時にドライヤーや電子オーブンなどを使って、ブレーカーを落としたことが何度もある。そういう欠点があるが、その事に文句を言うことは許されなかった。我が家で食洗機は二番目の地位にあるのだ。ちなみに一位は女房である。ぼく? その辺は、はっきりさせないことにしている。
 今夜も食洗機はぶうんという音を立てながら動いている。
 女房はこの食洗機に『ロジャー2号』というあだ名を付けている。自分のために黙々と働いてくれる機械は『ロジャー』なのだそうだ。一時期は、掃除機も『ロジャー』の称号を付けられていたことがあったが、二、三年ほどで壊れて買い換える羽目になるため、『ロジャー』失格となった。その他にも『ロジャー』と呼ばれた家電品はあったが、いずれもそれぞれ問題が生じて、称号を剥奪されている。
 結局彼女は、食洗機だけを『ロジャー2号』と呼び続けている。
 2号というからには1号がいたはずだ、というのは容易に付く想像だろう。
 その通り、今のロジャーは二代目で、先代がいた。

 結婚式の仲人のお礼をするために恩師の家を訪ねた時のことだ。
「食洗機をお買いなさい」紅茶と手製のクッキーでぼくらをもてなしながら夫人が真っ先に言ったのは、その言葉だった。
 ぼくは面食らった。当時、食洗機はまだまだ贅沢品で、なかなか手を出せる値段ではなかった。
 冗談かと夫人の目を見たが、女房に向けられたそれは、とても真剣なものだった。
「あなたは看護師さんを続けるのでしょう? 大変な激務よ。旦那さんの仕事も大変だから家事の協力は期待できないでしょう」
 ぼくが横に座っているのに、そんな事はおかまいなしに夫人は弁舌を振るった。ぼくは出された紅茶に口を付けながら苦笑いするしかなかった。
「洗い物から解放されるだけでどれだけ時間が節約されることか。これからの若い主婦は食洗機を持っていなくちゃだめよ」
 そういう恩師の家には食洗機はないのだけど……。
 女房は頷きながら夫人の話に耳を傾けていた。
 家に帰ってからすぐに女房は「食洗機を買うわ」と言った。
 ああいうのを洗脳されたというのかも知れない。女房はすっかり乗り気だった。
 ぼくはといえば、悪い話ではないと思っていた。確かに仕事は忙しいけれど、相対的に比べれば女房より時間があった。それでも食洗機はありがたい。理由を正直に言ってしまえば元も子もないが、家事が嫌いだからだ。
 女房の仕事のきつさは並大抵ではなかった。正看護師として心臓血管外科の最前線で働く彼女は、三交代制のシフトの中にあり、きょうは病棟での仕事、明日はオペ室といった具合に多事多忙を極めていた。
 シフト表に従って働いているのだが、これがくせ者で、看護師はチームで動いているために、次のシフトの担当者に渡すためきょうの患者の状況を看護記録に残さなくてはならない。病棟に四十人入院していたら、四十人がそれぞれきょうどんな点滴を何時に使ったかとか、水分を合計で何CC摂取したかとか、逆に何CC排泄したかなど全部書かなくてはならない。これは全員の処置が終わってから行わなくてはならないのだ。全部の仕事が終わった後、次のシフトのチームが出勤してくるまでに、すべて用意していなくてはならない。
 当然、勤務終了時間なんて、あっても無いようなもので、本来前の晩の二時に帰って来て、睡眠を取り、翌日の昼に出勤しなければならないところを、記録のために朝の六時過ぎに帰って来て、そのまま昼まで寝て、起きたらすぐに出勤という具合だった。
 そんな人と暮らしながらも、ぼくの生来の無精は治らなかった。家事もそこそこにレーザーディスクで映画を観たり、当時スタートしたばかりのJリーグの試合を観たりしていた。
 でもまったく何もしないという訳じゃない。洗濯機に衣類を放り込んで「おまかせボタン」を押すぐらいはする。だがその「おまかせ」という意味はすべておまかせという意味ではなかった。
 女房は夜遅くに帰ってきて、ぱんぱんにむくんだ足と、泥のように疲弊しきった頭で、ぼくの「おまかせ」の後始末として、洗濯物を洗濯機から取り出して部屋干ししたり、床の掃除機をかけたりしていた。たった二人しか暮らしていなくても床には結構な埃がたまるものだ。
 そんなわけで、結婚して最初のひと月で、台所の惨状を目にした女房は、食洗機を買うことにした。
 ぼくも「洗い物くらいやってよ!」と喧嘩になるより、金で解決できる問題ならそっちの方がいいと思った。
 言い訳に聞こえるかも知れないが、ぼくも当時、かなり忙しかった。研究を生業としているぼくは、実験に熱中して職場で寝泊まりすることも少なくなかった。だから、百パーセント彼女の希望を叶えることは物理的に無理という事情もあった。同じ家に寝泊まりしていながら、数日顔を合わせることがないというようなことがよくあった。すれ違い夫婦というのはあの頃のぼくらのためにあるような言葉だ。

 そうして食洗機は我が家にやってきた。
 これが八面六臂の活躍ぶりで、食べ終わったら、それを全部食洗機に入れれば良い。そうして二時間ほど経ってドアを開ければ、そこには綺麗に洗い上げられ、しかも乾燥も済んだ食器が並んでいるのだ。
 女房の感想にしてみると大抵の家電製品は「ここもやってくれると完璧なんだけどなあ」というところが必ずあるのだが、食洗機にはそれが一点たりともないそうだ。
 やがて子どもが生まれたが、女房は二ヶ月だけ休んで、あとは子どもを乳児保育園に預けて仕事を再開。女房の多忙は頂点を極めた。そんな中、食洗機はフル稼働で、女房の家事を助けた。
 ある夜、珍しく、二人とも夜に時間が空いた。ぼくはビールを買いに行き、女房は簡単なつまみを作った。
 そしてぼくらは談笑した。何日も別居のような状態が続いていたために、話題は尽きなかった。
 楽しかった。たぶん、あれは二人とも多忙だからこそ、ハプニングのように重なった時間を楽しむことが出来たのだと思う。
 ぼくはもっぱら聞き役だった。今でこそ立場は逆転しているが、まだ新婚の当初は、女房の方が話したがりで、ぼくは話の聞き手に回っていた。
 話にふけっていると長い電子音が響いた。女房が立ち上がった。
「ごめん。ロジャーが呼んでるの」
「ロジャー?」
「そう、あたしのロジャー」
 そう言うと、女房は食洗機に向かった。ドアを開け、中にぎっしり詰まった食器類を食器棚に収め始めた。
 ぼくも女房の横に立つと手伝い始めた。
 食器は熱かった。ロジャーがそれまで懸命に熱風を循環させて、内部の食器を乾燥させていたからだろう。
「こいつがロジャーなの?」
「そう。あたしの忠実にして有能な下僕、ロジャーよ。食器、熱いでしょう? ロジャー頑張ってたのよ」
 確かに、ロジャーは毎日女房の時間の捻出に役立っていた。
 全部、食器棚に仕舞い終わると、女房は白いボディの横を撫でた。
「ロジャーお疲れさん」
 その言葉には、深いいたわりが含まれていた。
 仕事仲間で、パソコンに愛称を付けている人は見たことがある。だが家電品にあだ名を付けている人を他に知らない。

 ロジャーは頑丈だった。くる日もくる日も毎日三回酷使されながら、びくともしなかった。女房のロジャーに寄せる信頼はますます強くなったようだった。
 だがある日、突然動かなくなった。ポックリ逝くという言い方があるが、まさにそれだった。
 女房の動揺ぶりは尋常じゃなかった。サービスに来たメーカーの技術者に食い下がっていた。
「どこが悪いんですか? はい、はい、それ以外方法が無い、ということですか。何とかなりませんか?」
 技術者も丁寧に説明していたが、女房の必死さに当惑しているようだった。
 結論は、直すより買い換えた方が安い、ということだった。
 ぼくらは次の週末、家電量販店に行った。
 ロジャーを買ってから、もう十年に近づこうとしていた。食洗機は時代のニーズに乗っているらしく、性能も消費電力も格段に向上していた。
 それらを物色して歩くのだけれど、女房の表情に、うまく説明できないが何かしら違和感を感じ取った。
「目星は付いたかい?」ぼくが訊くと、
「だいたいね。一番大事な条件は、キッチンの上に収まるかということだから」
 女房は手に、キッチンの一角の四辺の寸法をメモした紙を持っていた。
「何か気に入らないみたいだね? 違う?」
 ぼくは尋ねた。
 女房は頭を振って、
「ううん。そうじゃない。どれもびっくりするほど高性能になってるし、値段は逆に下がってるし……。それを見ていたら、ロジャーは一昔前の機種なのに、頑張ってたんだなって思って」
 それはそうだろう。でも、だったら今回の事は願ったり叶ったりじゃないか。ぼくはそんな事を思っていた。
 なぜ女房の表情が曇っているのか、掴みかねていた。
 最終的に機種が決まり、ぼくらは売り場カウンターの椅子に招かれた。担当者が領収書やら配達書のたぐいを用意してぼくらの向いに座った。
 女房が書類の必要事項に記入して埋めていった。やはり彼女の表情には何か引っかかる。無精でぐうたらなぼくだけど、人の顔色を見ることには長けていた。
 配達と設置工事の期日が決まった。同時に、量販店が古いロジャーを無料で引き取ってくれることになっていた。
 女房の浮かない顔は消えなかった。

 その日は、二人とも終日休みの日を選んでいた。午前十一時頃に、引き取り用のトラックが来てロジャーを運んでいく。
 ぼくはベッドで目覚めた。隣で子どもが寝ていたが、その向こうの女房がいない。
 ぼくはあくびをしながらキッチンへ行った。
 女房が炊事手袋をしてロジャーを磨いていた。中性洗剤やエタノールを使っていた。
「何やってるの? きょう捨てちゃうんだよ。綺麗にしてどうするのさ?」
 ぼくの問いかけに、女房は手を止めずに
「ほっといて」とぶっきらぼうに答えた。
 子どもが起きてくる頃になると、ロジャーは買った時のようにピカピカになっていた。
「すごーい。綺麗!」小学四年生の長女が奇声をあげた。
 時間が近づいてきた。
 ぼくは両親の家の二階に住んでいたため、女房とぼくの二人で抱えないと、家の前の道路にロジャーを運び出すことが出来なかった。ぼくらは息を合わせて、ロジャーを支えながら外壁に設けられた階段を下っていった。
 量販店から伝えられていたのは「丸八清掃」という会社だ。
 ぼくは車が角を曲がってくるたびに横に書かれたロゴを読んだ。どれも違う。
 くたびれて、路上に置いたロジャーの上に腰掛けようとした。
「座らないで!」
 女房が気色ばんだ。なにもそこまで声を荒げなくてもいいじゃないか。ぼくはそう思いながら、再び姿勢を正した。
 ロジャーを歩道の上まで運んでから三十分ほどしただろうか。「丸八清掃」のトラックがやってきた。
「○○さん?」
 助手席の初老の男性がぼくに声をかけた。
「そうです」
「モノはそれかい?」彼は顎をしゃくってロジャーを指した。
「はい。これです」
 トラックから運転手と助手席の男が降りてきて、ロジャーを軽々と荷台に運び上げた。
「確かに受け取りました。これに名前を書いてくれますか?」
 男が三枚綴りの受領証を差し出した。
「これ、下敷きに使って良いよ」と荷台から分厚い本を取って、ぼくにくれた。
 ぼくが書類に記入を終えると、男は三枚目を剥ぎ取って、ぼくに渡した。青カーボン紙のようで、ぼくの書いたことが写し取られていた。
「それ、お客さん控えですから」
 そう言うと男たちはトラックに乗り込み走り、去っていった。
「ふ~っ、終わったね」
 女房を振り返って驚いた。しくしく泣いている。あの気丈な女房が……。
 そんなにロジャーに愛着があったのだろうか。
「何で泣くの?」
 女房は逆に聞き返した。その間も、目から涙が溢れている。
「あなたは何とも思わないの? ロジャーが行っちゃったのよ」
 ぼくはうろたえた。
「いや、ロジャーはよく働いてくれたよ」
「それだけ?」
「それだけって……」
 女房は滅多なことではぼくをなじらない。言い合いをするより、自分が手を動かして解決してしまった方が早いと考えるタチだ。
 それが不意に食ってかかってきたのだからぼくは驚いた。何をどう取りなせば機嫌が直るんだろう、そんなことばかり必死で考えた。
「いいよ。あなた、そういうこと考えるの苦手でしょ」
 確かにそうだ。
「ただ、これだけは憶えておいて。ロジャーがいなかったら、あたし、あなたと離婚していたかも知れない。呑気なあなたは全然気づいていないと思うけど」
 痛烈な一撃だった。

 あれから、少しずつ自分の怠惰な性格を変えようと努力している。ゴミは分別するし、自分の部屋は自分で掃除をする。
「ロジャー2号」は先代以上に働き続けている。
 それを見るたび、ぼくは少しだけ胸に痛みを感じる。
 ぼくも女房も、毎年歳を取っていく。老年になった時、彼女のお荷物になるのか、それとも信頼できるパートナーになれるのか。
 すくなくもまだぼくは「ロジャー」の称号をもらっていない。
 すべてはそれからだろう。ぼくは思う。

    (了)

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