連載小説「峠」(5/5) 最終回
開いたトランクから、スペアタイヤと工具を出し、軍手を両手にはめると、大急ぎでタイヤの交換を始めた。
まゆが窓から顔を出し、叫んだ。
「大丈夫です。まだ生きています」
「そうですか。すぐに終わらせますから、ちょっと待っていてくださいね」
ジャッキアップして、破損タイヤのボルトを六角レンチで外していく。ボルトは固く、升川は、レンチの上に乗って体重をかけて回さなければならなかった。
急がなくてはならない。まゆの父がいつ息を引き取るか分からない。升川の手さばきは速かった。五本のボルトを外すと、スペアタイヤをはめた。再び体重をかけて締めながら、タイヤを車軸に固定していった。腕時計を見る。二十五分のロスだ。
道具を片づけると、運転席に体を滑り込ませた。
荒々しいエンジン音と共に車は急発進した。
帯広を過ぎ、本別町に入った。道はひたすらまっすぐで、信号は滅多になかった。升川は法定速度は完全に無視して、ありったけのスピードで飛ばしていた。
やがて、
「釧路まで二十キロ」という標識が現れた。もう間もなくだ。
そしてついに釧路市街にたどり着いた。
9
釧路市立病院に着いた。まゆは、升川を見つめた。葛藤、感謝、尊敬…色々な感情が入り交じった目だった。
「行ってきます」そう告げると、車を降り、病院に駆け込んでいった。升川は非常用通用口に車を停めたまま、シートを少し倒し、初めて深いため息をついた。どっと疲れが全身を包み込んだ。
ウィンドウを軽く叩く音で、気がついた。いつの間にか眠っていたらしい。後部ドアの外にまゆが立っていた。升川はドアを開けて招き入れた。時計を見ると二時間以上も過ぎていた。
まゆは真っ赤な目をしていたが、もう泣いてはいなかった。
「あの人は死にました」
升川は少し間をおいて静かに言った。「それは、お気の毒です」
「でも、升川さんのおかげで、いまわの際に間に合うことが出来ました。ありがとうございます。
わたし、あの人がどれだけ他人を傷づけて生きてきたのか、言って聞かせてやろうとしたんです。
すると、わたしの姿を見るなり、両腕を差し出して、
『今までのこと、すまなかった。どうか許してくれ』って激しい咳をしながら言うんです。
死ぬ間際になって、自分のしてきたことがわかったんですね。
それから、
『まゆにも、もっと良い父親になるべきだった。
それを詫びたかった。それを詫びるまで、何とか持ちこたえようと頑張ったんだ。待ってたぞ』
とも言いました。意外な言葉でした。
そして、
『ほら、持っていけ』と便せんで折った紙飛行機をくれたんです」取り出して升川に見せた。
「小さい頃、よく作ってくれたんです。そんな事をあの人が憶えてくれていたなんて…」
まゆの言葉が途切れた。手の上の紙飛行機をじっと見つめていた。
やがて、また口を開いた。
「そのあと容態が急変して、お医者様達がむらがって人工呼吸や、色々な注射を次々と打っていましたが、二十分後くらいに、あの人は死にました。
あたし、自分でも信じられないんだけど、気がついたらベッドにしがみついて『父さん、死なないで!』って言ってました。
どうしてでしょうね。あんなに憎い人なのに」
まゆは泣き腫らした目でぽつりぽつりと言った。
升川は、まゆに優しく語りかけた。
「それは、相田さんが、最後にお父さんを許したからですよ。謝罪を受け入れたからです。
だからつっかい棒が取れて、閉じこめていた自分の本当の気持ちが出たんじゃないですか」
「そうでしょうか。そうなんでしょうね。あの人のために、あんなに涙を流すなんて、今まで想像すら出来なかったです」
「結局は、何があろうと親子なんですよ」
「親子ですか…そうですね。
升川さん、升川さんが言われた通り、やはり、死に際に父に会えてよかったです。
一度しかない機会を作ってくださってありがとうございました」頭を下げた。
「お葬式の準備がありますので、いったん札幌に帰ります。お願いできますか?」
「もちろん。仮眠も取りましたし、無事にお宅までお届けしますよ。ただ、狩勝峠も日勝峠も閉鎖されましたので、旭川をまわって帰ることになりますが、いいすか」
「はい。おまかせします。もう急ぐ必要はありませんから、ここに書いてある『安全第一』、守ってくださいね」
「はい。わかりました」
升川は煙草を一本出した。
「あの、煙草を吸っても良いですか。すぐにやめますから」
「あら、升川さん、煙草を吸われるんですか?」
「いえもう何年も吸ってません。今夜は特別です。お父さんが亡くなったのに申し訳ありませんが、良い仕事をしたので自分へのご褒美というやつですかね」
火を点けると、升川はうまそうに煙を吐き始めた。ようやく母に償いができたような気がしていた。
(了)
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コメント
まゆが間に合ってよかった。。。本当によかったです。
親は親、子供のことを想っていないわけないですよね。
そんな暖かい感情がとても心地よかったです。
それにしてもYasushiさん、車のこと、詳しいですよね~、っていうか、いろんなことに詳しいですね!!!!
投稿: かずな | 2007.03.28 13:04
感想をありがとうございます。ひとつの親子の形を、臨終を通じて描いてみました。とはいえ、エンターテイメントの要素は、盛り込まないと気が済まない性分なので(笑)、しっかり入っていますが。
また書いたら、ここで掲載していきたいと思います。
投稿: →かずなさん | 2007.03.28 18:40